La Domo de mia scivolo

:: 2008-2009年度のベルギーの滞在記 ::

 

11月後半

2008年11月16日(日) :朝市, la Batte, 砂肝, 「ずりポテト」

昨晩は前にNicolasの誕生日で知り合った階下の住人、フランス人(が故に週末もベルギー人のようには実家に帰らない)のMathieu(たぶんこんな綴り)と彼のkotでビアー。そのアルコの力か久々に「夜」に眠ることに成功。…しかし3時過ぎには目を覚ます。どうにも明け方は起きていたいらしい、身体が。アルコが残っているせいか、いまいち集中力がなくだらだらする。明るくなってきたので気晴らしにお散歩。リエージュにきて初めてla Batteの朝市に行くことにする。気持ちのいい空気を浴びながら、ゆっくり歩いて30分ほど。途中、激しい雨にやられたけど…。この日曜日の朝の誰もいないがらんとした雰囲気は好き。

 

朝市、まぁこんなものか。人はいるけど、もうちょっと大規模なものを想像してた。雨ってのもあるんかな。別にこれといった目的があるわけでもないので、ぷらぷら。!砂肝発見!購入!キロ3.3EUR!300gの購入!

去年ブリュセルではestomac de poulet「鶏の胃」として売られていてお世話になったんだけど、ここではgésier「砂嚢」と表記。あくまで「胃」の一部なんすね。で、「簡単♪フライドポテトと砂肝炒め」(⇒COOKPAD)を参考させていただいて、料理。もともとプランがあって買ってきたものではなかったので、「こしょう」はなし、「たまねぎ」はなし。だいたいは別もん。「ずりポテト」。この大好物二つの結びつけを考案した人、本当に尊敬します。

 

ポテト+砂ずり

 

なんのこたぁない、「料理 ≦ アルコのあて」。

2008年11月17日(月) :ベルギー観光局, ワロン・ブリュッセル, 共同体

ふとしたことから、ベルギー観光局ワロン・ブリュッセルのサイトを見た。かつては(とはいっても2007年末、すなわち去年の末までは)「ベルギー観光局」だったものが、2008年1月から「ベルギー観光局ワロン・ブリュッセル(Belgian Tourist Office Wallonia - Brussels)」と「ベルギー・フランダース政府観光局(Tourist Office for Flanders, Belgium)」に分割された、その片割れ。「観光」それ自体は基本的には連邦構成体の一つである「共同体(Communautés/Gemeenschappen)」の権限事項なはずだから、フランデレン共同体(=フランデレン政府)とフランス語共同体それぞれに分かれるのはある意味理解できる。ドイツ語共同体はどうなってるんだろう…?

まぁ気になったのは…やっぱり「名称」。フランデレンの方が「フランダース」と英語を使っているのは分かるとしても、ワロニーの方は一貫して「ワロン」。どうにもこの形容詞使用は気になる。間違いなく日本では、英語の「ワロニア(Wallonia)」よりも、フランス語の名詞形の「ワロニー(Wallonie)」よりも、この形容詞の「ワロン」が知られているからってことなんだろうけど。やっぱり気持ち悪い。「フラン政府観光局」とはきっと言わないはずだし。わりと公的な(性格を有する)組織なんだから、もうちょっとうまいことやってくれてもいいと思うんだけど。ただ「ワロン」と名詞のように使われるよりも、「ワロン地方」とやるだけで、ちょっとはお茶を濁せるような気もする。

まぁ、相手国の慣習に従った名称を(時に深く考えもせず)そのまま採用しているって例は、知らないだけで他にもたくさんあるのかもしれない。

 

サイトの中には「ワロン時間」というポータルサイトもあって、そこでも一節:

       Impressions de Wallonie
       ベルギー ワロンへの誘い

       ベルギーに着いた
       時計をはずした
       気がついたら夜だった

2008年11月18日(火) :ワロニー語, くま, 博論

眠い、眠い、眠い。生活リズムが完全に夜型になっているので、授業(特に午後からの)が多い日は辛い…。

フランス語の授業が「先生の都合」とかで賞味一時間の5時で終わる。うーん、7時からのワロニー語まで2時間。結構時間潰しが下手な私。頼るべくはcafé。そのものコーヒーで終わるわけもなく、bièreを幾杯か…、酔う。

あっ、目の下に「くま」ができてる。人生において初かも!? なんか身を削って留学、研究しているようでよい。あんまり「がんばる」のが好きではないんだけど、わりと致し方ない。博論があるわけで。

 

もう帰宅した瞬間から、寝る気満々。お休み。ぽて。

2008年11月19日(水) :旅, Westvleteren, 徒歩, Ieper, SNCB, Comines

Liège-Guillemins 9:06 IC 1731  
Bruxelles-Midi
 
10:32
10:41 IC 2332
Poperinge 12:28
*** Sint-Sixtusabdij, In de Vrede ***
17:31 IC 2332
Ieper 17:38
*** Ieper ***
19:39 IC 2319
Bruxelles-Midi
 
21:19
21:28 IC 1720
Liège-Guillemins 22:54
   

「旅」にでる。我が友と。当初はOostendeに行こうかということになってたんだけど、ふと思い返して、Westvleterenを飲みに行こう。10月31日に書いたように、ベルギーに現在6つある「トラピストビール」のうち、「建前としては」市場に出回っていなくて、直接行かないと口にできないビア―がそれ。「猫祭り」で有名なイーペル(Ieper / Ypres)から北西にちょっとのところにあるWestvleterenという町(村?)にある、シント・シクスタス修道院まで行かなければならない。

まぁついでにIeperも寄れればということで。おそらくは当地に行くには「車」が必須であるようだけど、車はないので電車で最も最寄と思われるPoperinge駅までとりあえず行く。リエージュからブリュッセルを経由して3時間ほど。わりと広い、ベルギー。

 

Poperingeに着いた。はいいが、ここから修道院までバスが出ているのかどうかも分からない。こじんまりとした街だけど、中心まで行くとOffice de tourismeがある。行き方を聞いてみると、バスは「電話をかけて来てもらうシステム」とのこと。そんなのがあるってのは初めて知った。ただし、バスを呼ぶのには少し時間がかかるよう。どれくらいか電話で聞いてもらったけど、話し中でバス(会社?)がでない。距離を聞くと、約6kmとのこと。よし、歩こう。

 

Westvleterenへの道  Westvleterenへの道  Westvleterenへの道

 

Poperingeの町をでて、その名もSint-Sixtusstraatという「通り」、草原の中の細い一本道をひたすらてくてくてくてくと進む。天気があやしいときもあったけど、どうにか雨に当たらず。1時間ほど歩くと、緑の中木立とともに修道院が見えてくる。感動。そして疲れた…。車が長い車列を作っている。これがビアーを買うための列。まったくもってドライブスルー・システム。まぁこっちは徒歩なのでケース(ちなみに24本入りで25~36EURぐらい)で買うわけにはいかないので、向かいにあるIn de Vredeというカフェへ。ここはWestvleterenのビア―が「正式に」飲める唯一のカフェのよう。中はたくさんの人で溢れかえっている。年齢層が非常に高い。おどろくくらい高い。お年寄りの道楽かな。

 

シント・シクスタス修道院   Westvleteren

 

いよいよご対面。ビア―は以下の三種類あって、やっぱり「Westvleteren 12」でしょ。これアルコール度数が10.2%あるらしい。疲れた身体になかなかガンとくる。味がどうとかはうまく言えないけど、美味し~~~~~~。まぁ1時間以上歩いてきたからね、精神的にもこれを否定できない。なかなかの値段設定だけど。お土産に、それぞれを各2本の計6本。12.7EUR。そしてグラスもついでに購入(3.3EUR)♪ ちなみにこのカフェ、完全にオランダ語のみの表記。フランス語はおろか英語の表記さえもない。さすがはフランデレン。

      ・Westvleteren Blonde(緑キャップ):3.2EUR
      ・Westvleteren 8(青キャップ):3.7EUR
      ・Westvleteren 12(黄キャップ):4.3EUR

 

再び歩いてPoperingeまで帰ってきたころには日は暮れかかっていたけど、ご飯ついでにIeperの街も見ておく。ただし時間的に観光的施設はすべて閉まっている時間で、食事の店を探しつつ街内を散策。なんともこじんまりとしているけど趣深いよい街。ただここで入ったご飯屋さんはヒドカッタな…。

ちなみに3年に一度の「猫祭り」、来年2009年に開催される。日にちは5月9日。行ってみたいんだけど、ちょうど日本に一時帰国する日と重なった。合わない。

 

イーペルの街   イーペルの街

 

 

※ Ieperの一つ手前の駅「Comines / Komen」:地図を見ればわかるんだけど、ここはフランデレンの地にぽつんと浮かぶ「飛び地」。この自治体はエノー州であり、ワロニー地域である。ほんとうにぽつんと離れて存在して不思議な気もするけど、よくよく考えると、その南はフランス共和国で実は「フランス語」というもので他のワロニー地域と自然に結び付いている。完全にフランス語共同体に属してもいるわけで、言語表記は本来なら「フランス語」のみでいけるはずなのに、この駅はフランス語とオランダ語の二言語表記。場所柄故になせることなのか。今回は時間なかったけどこの街をちょっと歩いてみたい。

 

Comines   Komen

 

2008年11月20日(木) :Charles ROGIER, 独立運動, 言語観

街中の公園(Parc D'Avroy)に鎮座するCharles ROGIER像(写真)。独立75周年を記念して1905年の9月に建立されたもののよう。この公園は先週まで「移動遊園地(foire)」(わりと大々的な絶叫系アトラクションもあって、それが移動してくるわけだから、ちょっと怖い。ただし、ベルギー人に言わせると「移動」しているが故に毎度安全チェックがなされるので固定式のものよりもより安全とのこと)が来ていて、この像もその喧噪の只中に置かれていた。しかし、それが去ってみれば、もとの静謐さの中威厳を放つ。

 

Charles ROGIER

 

さて、このRogierという人。ベルギー建国の士の一人であり、ベルギーではなかなかの有名人。生まれたのがちょうど1800年ということなので(1885年死去)、独立のために「戦い」、臨時政府を作るな新国家形成に主導的な役割を果たしたのが30歳。歳下か…。ちなみに、生まれたのは(現在)フランスのSaint-Quentinで、後に「帰化/養子?(d'adoption)」してリエージュ人になったらしい(Wikipédia、にたよるようになっちゃ研究者もおしまいだ…)。いまいち分かりにくいけれども、1815年まではフランスとの、以降はオランダとの統合期、このような時期を経た人について「国籍」を云々するのはあまり意味をなさない。とりあえずベルギー国家の建設に関わったということで、まちがいなく「ベルギー人」でしょう。

後に首相(1847年-1852年、1857年-1867年)を務めるなど大政治家として名をはせたRogierだが、1832年には当時の司法大臣であったリエージュ出身のJean-Joseph Raikem(1787-1875)に宛て書簡の中で以下のように書いている(Baudart (1945) L'avenir de la Wallonie, p. 38より)。そこにはまさに当時の指導者層たちが抱いていた「言語観」がものの見事に表れている。

健全な国家運営への第一歩は、ある一つの言語を独占的に使用することです。そして、ベルギー人の唯一の言語といえばフランス語であることは明らかです。すなわち、国を正しく導いていくためには、市民上のおよび軍事上の職務はワロニー人やルクセンブルク人に委ねることが必要不可欠なのです。そうすることで、それらの職務に付随する特恵を一時的に奪われたフランデレン人たちはフランス語を学ばなければならなくなり、結果としてベルギーにおけるゲルマン的要素を少しずつ破壊していけるのです。
Les premiers principes d'une bonne administration sont basés sur l'emploi exclusif d'une seule langue et il est évident que la seule langue des Belges doit être le français. Pour arriver à ce résultat, il est nécessaire que toutes les fonctions civiles et militaires, soient confiées à des Wallons et à des Luxembourgeois; de cette façon, les Flamands, privés temporairement des avantages attachés à ces emplois, seront contraints d'apprendre le français et l'on détruira ainsi peu à peu l'élément germanique en Belgique.

2008年11月21日(金) :『B型自分の説明書』, 郵便, EMS, 「学問」

日本から書籍郵便が届いた。日本での投函から10日弱。なんならEMSとほとんどかわらないくらいの速さで。それもぐっとお安く。で、『B型自分の説明書』。たまには「日本語」をということだけど f^_^; 実は毎日フランス語以上に日本語を読んでます…。さて、「血液型占い」についてだけど、まったく信じていない、けど(とりわけ飲み会において)話題に上ればそれに乗る、そんな立場。ということで、いまさらだけどちょっと目を通して見たかったん。

 

『B型自分の説明書』

 

読書時間15分。あっちゅう~ま。正確に調べたわけではないけど、だいたい3分の1ぐらいの項目に「ぴったり」あてはまった、でもう3分の1が「まぁいわれれば」、残りが「全く違う」。さて。血液型は4分類だし。これだけ当てはまった!っていうのよりも、まったく当てはまらないのがこれだけあったってことの方が大きいのでは。

「学問」とは社会にほんとうに無力なものだなと若干哀しくはなった。

 

まったくベルギーと関連しない話題。。。

2008年11月22日(土) :雪, Beaujolais nouveau, Standard, サッカー観戦

初雪。うっすらと明けかけた中の銀世界はなかなか美しかった。本日のリエージュの予想:最高3℃、最低1℃。部屋の中ではハーフパンツ&Tシャツ、そして汗をかいている。

 

初雪  初雪  初雪

 

スーパーの開店の時間を待って外へ出てみると、雪はもうたいしたことなくなっていた。お買い物ついでに、遅ればせながらBeaujolais nouveauを。お安いのを2本。それにしても1本は1.99EUR、日本円で250円弱よ。やりきれんよねあの日本での価格は。何故みんな飲む。いや、分かる。だって日本で、レストランで、ベルギービアー飲みたくなるから。

 

Beaujolais nouveau

 

そろそろ、最近の私の就寝時間。これのんでカンと寝ます。

 

**********

そして夜、気分転換の意味も込めて、久々にサッカーを見に行く。Standard de Liègeがホームで試合するのは(UEFAカップの試合を除くと)ものすごく久しぶり。実際に、前回試合を見に行ったMons戦(10月18日)から、SC. Charleroi戦(チケット完売)を除いて、ずっとアウェーの試合が続いていた。ということで本当に久しぶりの試合、リーグ戦(Ligue Jupiler)の対Excelsior Mouscron戦。

で、前回の反省からちょっと早めにスタジアムへ向かう。それでも既に多くの人で溢れ、相変わらずバスは混みこみ。スタジアムの手前からやっぱり歩かされる。寒い。窓口にて。「席ないよ」と。えっ…。こんなフランデレンの地方都市のクラブチームとの試合が…。やっぱりStandardは人気チームやね。とぼとぼ帰宅。寒い。

2008年11月23日(日) :お散歩, Albert MOCKEL, Wallonie, Cointe地区, 『ワロニー』誌, Camille Lemonnier

日曜日恒例(?)のお散歩。日曜朝は人が本当にいなくてよい。徹夜明けのちょっと高いテンションとちょっとだるい身体と共に。今日は家から線路を挟んで向かいのCointe地区をてくてく。ブロカンテでLaveuには依然行ったけど、あまり線路を越えることはない。直線距離では物凄く近いけど、実際に行くとなると大きく迂回して線路を越えないといけない。鉄路によって山手と下町が完全に分断されている典型的な例。リエージュは本当に「坂の街」だということを再確認。

 

Cointe地区  Cointe地区  Cointe地区

 

途中で「アルベール・モッケル通り(Rue Albert-Mockel)」を発見。さすがはリエージュ。この通りの名前にもなっているAlbert MOCKEL(1866-1945)は、リエージュ出身(厳密には現在は隣町のOugrée)の作家、ベルギーの印象主義(文学)を語るには外せない人物であり、また「最初のワロニー人の闘士の一人」(Astrid von Busekist, La Belgique, 1998, p. 160)とも言われているようにその政治的な発言でもワロニー運動史の中でも大きな地位を占めている。

現在、ベルギー南部のフランス語圏は一般的に「ワロニー(Wallonie)」と呼ばれているが(ただし「公的」な文章では用いられていない)、この用語を一般に普及させたのは彼だと言われている。形容詞またはことばや住民を意味する wallon「ワロニー(人・語)の」は以前から使用されてきたが、一方で « Wallonie » が現在的な意味で使用されるのはベルギー独立以後のこととされる。1844年にFrançois-Charles-Joseph Grandgagnage(1797-1877)が『リエージュ評論(Revue de Liège)』誌上で用いたのがその初出とされる(Albert Henry, Esquisse d'une histoire des mots wallon et Wallonie, 1990, pp. 12-3)。ただし、それはあくまで文献学者などの間のみで用いられる専門用語にとどまり、その後もしばらくは人々が日常的に用いる様な用語ではなかった。

Albert Mockelが1886年に後に「ベルギー象徴主義芸術のもっとも重要な代弁者」(岩本和子『周縁の文学』2007、148頁)とも呼ばれる雑誌『ワロニー(La Wallonie)』誌(1886-1892)を創刊したのは、そのような状況の中であった。そしてこれにより、« Wallonie » という用語は人口に膾炙するものとなった ――― とされている。が、僕個人的には若干の疑問をもっている。名の知れた文芸雑誌ではあろうが、あくまで文芸雑誌であり、購買数は非常に限定的で、さらにはその購買層は富裕層に限られていた。そのような雑誌のタイトルに用いられることで、果たして人々の日常にまでこの語が「下りてきた」のだろうか???

 

Albert Mockel通り

 

もう一つ。彼は19世紀の後半という時点でワロニーとフランデレンの行政的分割(すなわち現在の「連邦制」へともつながる)を主張した人物としても知られている。

    ワロニーはワロニー人に、フランデレンはフランデレン人に、ブリュッセルはベルギー人に。
    La Wallonie aux Wallons, la Flandre aux Flamands et Bruxelles aux Belge.

という「有名」な文言と共に語られるけど、実はこの引用文はどの文章のものか、またそもそもこれはMockel自身の言葉であるのかどうかは確認できてない。とは言え、実際に1897年の時点で、『メルキュール・ド・フランス(Le Mercure de France)』誌への論文の中で以下のように「行政的分割」に言及している。ちなみに、この論文はCamille Lemonnierについての論文。このLemonnierという作家には興味があって、時間ができたら彼の『ベルギー(La Belgique)』(1888年)ってのを読んでみたと思っている。

☆☆☆ 訳は…めんどくさい ☆☆☆
Il y aurait , il est vrai, un remède: la séparation administrative complète de la Flandre et de la Wallonie, avec un parlement pour chacune d'elles, et l'union des deux petits états sous une chambre fédérale dont ils éliraient chacun la moitié. Il y aurait alors en Flandre un gouvernement ultra-conservateur et catholique, en Wallonie il serait libéral et socialiste, et l'on ne verrait plus comme à présent des heurts d'intérêts constants du nord-ouest agricole et des régions de l'est et du midi qui sont industrielles. Mais telle est la crainte de paraître révolutionnaire pour autre chose que du pain, tel est l'aplatissement de tous devant le « fait accompli » que personne en Belgique n'a osé parler de cela.
       Albert MOCKEL (1897) "Camille Lemonnier et la Belgique", in Mercure de France, 22(88), p. 101.

 

*****後「時」談*****

ヴィニョ&セルヴェジャを飲みながら、何故か眠れず、何故か&無性にTHE BLUE HEARTS心地。Youtubeにさっくと足・元・攫。20年以上の時をこえ、小学生だった頃と同じ気持ちで聞ける、C'EST LA MUSIQUE。もしくは僕が成長していないのか。

     生きてることが大好きで♪ 意味もなく興奮している♪
     まあるい地球は誰のもの? 砕けちる波はだれのもの?♪
     いろんな事が思い通りになったらいいのになあ♪
     はちきれそうだ♪ とび出しそうだ♪ 生きているのが素晴らしすぎる♪
     歴史の本の最後のページ♪ 白紙のままで誰にも読めないよ
     

こう書き出してみると、ブルーハーツって「生讃歌」的、であり「物語論」的。やっぱり、昔からずっと、「世界の真ん中」が好き。アルコのせいか頭ぐるぐるする。ねよ。

     朝の光が 待てなくて 眠れない夜もあった
     朝の光が 待てなくて 間違った事もやった
     僕が生まれた所が 世界の片隅なのか
     誰の上にだって お日様は昇るんだ

     川の流れの激しさに 足元が震えている
     燃える炎の厳しさに 足元が震えている
     僕が今見ているのが 世界の片隅なのか
     いくら捜したって そんな所はない

     うまくいかない時 死にたい時もある
     世界のまん中で 生きてゆくためには
     生きるという事に 命をかけてみたい
     歴史が始まる前 人はケダモノだった

2008年11月24日(月) :冬, ワロニー語・文学協会(SLLW), ING, ヨーグルト, コンゴ, 国境なき医師団

今日もお昼からなかなかしっかりとした雪。どうやら「冬」は始まったらしい、嫌だ…。

家に帰ると本が届いていた。
Société de langue et de littérature wallonnes (2008) Le cent cinquantième anniversaire de la Société de langue et de littérature wallonnes.

 

そのタイトルが示す通り「ワロニー語・文学協会(SLLW: Société de langue et de littérature wallonnes)」の創立150周辺を祝して刊行されたもの。記念式典のメニューが掲載されていたり、ちょっとだけ想像とは違う内容。ちなみに、現在ワロニー生活博物館(Musée de la Vie wallonne)にあるワロニー語・文学関連の資料はそもそもSLLWが保管していたもので、それを2006年3月31日の協定でリエージュ州に移管したものらしい(2042年までは所有権はSLLW)。

この協会はそもそも1856年に創設され、次のような名称の変更が行われ現在にいたっている:

     1856年:リエージュ・ワロニー文学協会(Société liégeoise de Littérature wallonne)
     1909年:ワロニー文学協会(Société de Littérature wallonne)
     1946年:ワロニー語・文学協会(Société de Langue et de Littérature wallonnes)

まずはその設立時期に驚く。まだフランデレン運動が政治的性質を有していない時期(すなわちまだ「言語法」というものが現れていない時期)に、ベルギーの公用語であるフランス語とは異なる「言語/方言」を対象とする機関が設立されたというのは面白い。そして上の名称変更からも読み取れるように、当初は何よりも「リエージュ」と「文学」を中心としていたものが、次第にその管轄を広げてきた。「言語(langue)」が名称に明示されるのは戦後1946年になってから。とは言え、単に文学愛好家の集まりとして設立されたというわけでもなく、言語への関心は設立当初より有していた。

Jacques Werner('Aspects du mouvement littéraire wallon au XIXe siècle dans une Belgique que l'on vient de créer', in Lucien Mahin (dir.) Qué walon po dmwin ?, 1999, p. 34、強調は石部)の研究によれば、その設立目的は以下のようなものであったとされる:

     1)ワロニー語の書記体系の確立
     2)美、人間性、普遍性を才能豊かに表現する文学の産出
     3)言語の純粋性と古い慣用表現の維持
     4)ワロニー地方に存在するロマンス語系の諸言語の一般的辞書の創造
     5)住民の教化
     6)ワロニー語の保護:この遺産について目録が作成されそして固定されることは急務である

協会内での使用言語がフランス語であったことや、初期のメンバーがほぼ例外なく裕福な層の出身者であったことなどから、フランス語以外の「ことば」へ関心が示されたにせよ、決して「フランス語の地位」が問題にされることはなかった。すなわち、ワロニー語は保護されるべきものであっても(何故ならば「遺産」であるから)、けっして何らかの公的な地位が与えられるべきものではなかった。失われていくものを「冷凍保存」する、現在少数言語に対して見られる思想がこの時代にすでにみられていた。この点で後の「ワロニー運動」との接点がある。

 

«<i>Le cent cinquantième anniversaire de la Société de langue et de littérature wallonnes</i>»

 

その他:

・銀行INGのHome'BANKのソフトが起動できなくなった。調べてみると、「セキュリティ・ファイル(fichier de sécurité)」が見つからない為のよう。« IMPOSSIBLE DE LIRE LE FICHIER DE SÉCURITÉ » そう言えば数日前、ふとしたことから"***.bbl"というファイルを削除した記憶あり。なんかbblの拡張子で、TeXのビブリオ関連のファイルだろうと思い、見慣れない名前だったので削除した。たぶんそれだ。新たにセキュリーティ・ファイルを作成するには、新しい「初期化コード(code d'initialisation)」が必要とのこと。それを入手するために銀行の窓口に行く(電話を用いてPhone'BANKからも入手できるとのことだけどうまくいかなかった)。絶対12:00-13:00はお昼休みだろあいつらとよんで、時間を調整して銀行へ。すると昼休みは13:00-14:00だった…。やるせない。

・なんとなく「カフェ・オ・レ(café au lait)」が飲みたくなり、「牛乳」というものを初めて購入。コーヒーを作って牛乳を注ぐ。…ヨーグルトでした。紙パックで「農協牛乳」とそっくりなので何の疑いもなく「牛乳」だと思い込んでた。思い込みは本当に危ないと再認識。

・コンゴがえらいことになってる。数日前の新聞に入っていたパンフレット。ÉTAT: CRITIQUEを見てみた。そんなことになってるんやね。コンゴなだけにベルギーが主導で何かをやっているのかなと思ったけど、どうやら「国境なき医師団(Médecins Sans Frontières)」の活動の一つの紹介のよう。

2008年11月25日(火) :ネットの定量性, rifondou walon, 方言復権運動, 方言学, Outremeuse地区

※ ネットが急に遅くなった。やっぱり「定量性」の模様。忌々しい ※

 

徹夜明けの授業4つは辛い。耐えた。フランス語の授業なんて「テスト」だったし。ワロニー語の授業なんかはもう発音の規則が終わり、普通に文章を読むようになった。一応「一年生」のクラスだけれど、他の人たち(おじいちゃん・おばあちゃん)は少しは喋れたり、聞いたことのある人たちやからね。難しい。クラスが「初級クラス(débutant)」ではなく「一年目(prmière année)」となっている理由がよく分かった。なんとなくフランス語の類推か、過去の記憶なんかで文章の意味は理解できるよう。先生も相当に難しいと判断される箇所しか意味を言ってくれない。そんな中逐一「意味」の説明を求めるわけにはいかず、こっちも「母語ではないフランス語の直感」をフル活用して想像。

 

r(i)fondou walon「改定ワロニー語」の話
休憩時間(2時間の授業で途中一回数分の休憩が入る)にふと先生にこの r'fondou walon について質問した。ものすごく盛り上がってくれて授業の時間が来てもそのお話。みなさんを巻き込み30分ほどこの話。これが相当に面白かったし、興味深かった。

この r'fondou walon だけど、「改定ワロニー語」と訳したけど、別に新たなワロニー語を作り出そうという試みではなく、単に(というわけでもないが)新しい書記法を作り出す試み。ワロニー語の正書法については、伝統的に「Fellerの正書法(orthographe Feller)」が使用されてきた。1900年にJules Feller(1859-1940)がその『ワロニー語正書法試論(Essai d'orthographe wallonne)』("BSLLW", XLI、出版自体は1901年?)をもって考案したものが、先日見たSLLWなどの後押しなどもあった半ば「標準」となって用いられてきた。もちろんそれ以前は、作家によって様々な方法で「書かれて」きた。この書記法はそれなりに(←中途半端な表現ですが…)普及していたんだけど、(1)そのあまりにも音声中心主義的なシステム(発音される通りに表記する)と、(2)それに伴いワロニー語の中にある多様性を分断する性質(リエージュのワロニー語とナミュールのワロニー語は別もとして表記せざるを得ない)という問題点も抱えていた。

1990年代初頭から、「若い」ワロニー語話者たち(jeunes wallonophones)を中心として新しい正書法を考案しようとする動きが現れた。その目指すところは、

     ・全てのワロニー語を一つの表記で表現する「汎ワロニー語主義」:一つの表記でそれぞれの発音
     ・Fellerの正書法のより「簡略化」:不要なアポストロフやアクサンなどの補助記号の削除

この新しいdiasystèmeな正書法と、今ワロニー語の授業で学んでいるFellerの正書法(大学の「方言学」でもこれ)の違いを質問してみたわけ。ワロニー語の先生は実はこの試みに当初参加していたとのこと。全体的な意見としては、面白くはあるが実現は難しい、という感じだった。一つの書記法で全ての地方のワロニーが表現できるのはてても素晴らしいことだけど…、やっぱりそれは難しい、といったような立場。新しい用語(néologismes)の考案についてもわりと否定的だった。

で何が言いたいのか。やはり「ワロニー語」の教育や普及に携わる者であっても、その立場は決して一枚岩ではないという「あたりまえ」な事実。「リエージュの…」や「ナミュールの…」と細分化しつつもそれぞれ教えられ実際に使用され続ければよいとする立場から、より統一的な「言語」を目指す立場まで。また、これとは別により学術的な立場として伝統的「方言学」の立場に立つ者もいる。かつてワロニー語の普及に尽力する「若い」ワロニー語話者からメールで教えてもらったことだが、そのような伝統的「方言学」者は、(彼らにとってはだが)ワロニー語の復権運動にとって「障害」にしかならないということらし。先日見たSLLWに属する人たちなんかがこの批判の対象となるんだろう。

では何故方言学者がワロニー語復権の妨げになるのか? 前述のメールの彼の言葉を借りるならば、「記述と称してワロニー語を細分化してきたのはまさに方言学者」であり、「彼ら自身はもはやワロニー語を話さず、子供にもフランス語のみの教育を授け」、そして「今現在のワロニー語がどうかには関心を払わず、もっぱら研究対象としてのかつての(例えば、50年前、100年前の)ワロニー語の姿のみを考察の対象としている」から、と(引用ではなく石部による要約)。そして、フランス語共同体の「内発的地域語評議会」など公的機関が補助金を交付するのはもっぱらそれらの人たちだけだという批判。

かつて「標準語」の統一のために、その夾雑物として排除の対象となってきた「方言」。しかしある段になり、「方言」の復権を進めようと思うと、その大きな多様性を前に再び「方言」内のある程度の統一化を考慮しなければならないという復権運動が常に抱えるジレンマ。ここである一つの「標準語」を創り上げそれを普及させようとすれば、それは自家撞着に陥る。その点で、「diasystèmeな正書法」ってのはうまい着地点だとは思うけど。

 

参考に:ワロニー文化協会(UCW: Union Culturelle Wallonne)内の「言語委員会(Commission Langue)」が、1996年3月23日にシャルルロワ(Charleroi)で「ワロン語のためにどのような言語計画を?」と題されたシンポジウムを開催した。そしてその議事録が Hendschel(1997)として刊行され、またPDFも公開されている。

Hendschel, Laurent (Lorint) (1997) Quéne planificåcion ponosse lingädje walon ? / Quelle planification linguistique pour le wallon ?: Akes do coloke internacionål di Châlerwè 23 di mås' 1996 / Actes du colloque international de Charleroi 23 mars 1996, Commission "Langue" de l'Union Culturelle Wallonne. (⇒ PDF

 

Outremeuse地区   Outremeuse地区

 

ワロニー語の授業が行われている建物のあるムーズ川対岸(大学や家から見て)のOutremeuse地区。なかなか雰囲気のある地区。

2008年11月26日(水) :ピンポンダッシュ, 火事, 反省, Eurostar, イギリス

昨晩。10時すぎぐらいに我が友のkotを訪ねた。アルコを片手に。で、近所まで行くといまいちkotの場所が定かではない。なんとなく思い当たる家で「ピンポ~ン」。出てこない。ちょっと引き返して再びその家の前を通ると、知らないおっさんが出てきてあたりを見回してる。間違えた! ヤバイと思い一度素知らぬ風に前を通過。しばらくして再びその家の前を戻ると、まだおっさんがいた。そして、「お前か!?」と、えらい剣幕。ものすごい怒られた。肩を掴まれ、警察よぶと。全力で謝った。帽子を脱いで謝る。怖いのもあるし、それ以上に悪いことしたなぁと。100%こっちの非。どうにか許してもらえた。もし銃がある国なら、殺されてもおかしくはないなと反省。ふるえた。

酔って帰ってきて、お腹がすいていたので、パスタを作る。そのまま寝てしまい、朝異臭に気付き起床。火をつけっぱなしで寝た。電気コンロだから火はでなかったものの完全にパスタは炭と化してた。笑いごとではなく、本当に危ない。反省することの多々あった昨日。

 

思い立って来月の頭にロンドンへ行くことにした。先輩が好きに泊まってってええでということで。ありがとうございます。まだ一度も行ったことのない国。なんとなく高いイメージで、さらには行き止まりなイメージで、まだ未踏の地。どうやって行くか。まぁお安く行けることにこしたことはない。なんとなく行くならOostendeからフェリーで上陸ってのがあったんだけど、ちょっと調べてみると、そのフェリーが見つからない。廃止された??? 不明。わざわざフランスまで行ってフェリーってのもなと思っていると。思ったよりEurostarが安いことに気付く。

Eurostarのサイトにて。曜日や時間で大きく値段が異なる(片道40EUR~200EUR)けど、どうにかうまく調整して出発の10日前ぐらいなのに往復で80EUR。これは相当に安いと思うんだけど、これがどのような制度の割引なのかは分からない。往復Eurostarってのも面白みがなく色気がないけど、片道だと異様に高い値段設定だし、仕方がないかと納得する。

2008年11月27日(木) :Georges SIMENON, メグレ警部, 偉大なベルギー人

先日日記に書いたCharles ROGIER(11月20日)とAlbert MOCKEL(11月23日)に引き続き、「街中にある偉人達の名前から日記ネタ」をシリーズ化しようと調子に乗ってみる。そういうことで、今日はGeorges SIMENON(1903-1989)。その胸像がPlace du Congrès(⇒地図)にある。いわずとしれたベルギー人作家。ジュール・メグレ(Jules Maigret)警部の登場する小説。いわずとしれた…いわずとしれた…いわずとしれた…いわずとしれた…、実はあまり知らない。お恥ずかしながら、読んだことがない。いずれにしてもリエージュ人ということで。

 

Georges Simenon

 

以前フランス語の授業で教材として使用された「10人のベルギー人」ってのにSimenonはしっかり組みこまれてたし、授業の参加者も(僕も含め)全員知ってた。それによると異様に多作な人だったらしい。で、この授業でみた映像の元ネタは、少し古くなるけど2005年にフランス語共同体の公共放送RTBFが放送した「最も偉大なベルギー人たち(Les plus grands Belges)」という番組だったよう。順位は下に挙げたけど、Simenonしっかり10位にランクイン。偉大だ。

les plus grands belges   De Grootste Belg
1.  Jacques Brel 1.  Père Damien
2.  Baudouin Ier de Belgique    2.  Paul Janssen
3.  Père Damien 3.  Eddy Merckx
4.  Eddy Merckx 4.  Ambiorix
5.  Sœur Emmanuelle 5.  Adolf Daens
6.  José Van Dam 6.  Andreas Vesalius
7.  Benoît Poelvoorde 7.  Jacques Brel
8.  Hergé 8.  Gerardus Mercator
9.  René Magritte 9.  Peter Paul Rubens
10.  Georges Simenon 10.  Hendrik Conscience 

この件についてWikipédiaを見てたら面白い記事があったので、そのままここで(Wikipédiaの記事: Les plus grands Belges)。当然「偉大なベルギー人」というのだから、ワロニー人もフランデレン人も、ブリュッセル人もみんなに聞いた結果だと思っていた。けどどうやら違うらしい。先のRTBFの結果はフランス語話者を対象としたアンケートの結果で、オランダ語話者に対してはVRTが別の番組で同様のアンケートを行ったらしい(De Grootste Belg)。それが全く異なる結果で驚いた。Simenonは漏れてるし…(オランダ語話者にとっては77位!)。

フランス語話者とオランダ語話者に共通している「偉大なベルギー人」は、Jacques Brel(歌手・俳優)、Damien神父、Eddy Merckx(自転車選手)の3人だけ。自国の「偉人」すら共有してないって、まさに別の国だなーと。けどふと思う。いや普通かも。おそらく日本でも「偉大な日本人」を聞いたら東京と大阪で結構大きな違いがでるかもしれない(もちろんでないかもしれない)。それにしても何故、前国王のボードゥアン1世がフランス語話者に人気なんだろう。なんとなく(相対的に)反王室・反カトリックなイメージなんだけど。意外。あと、フランデレン人にとってやっぱりHendrik Conscienceは「偉大」なんだ、と再確認。

2008年11月28日(金) :煙草, tabac / cigarette, tube, 禁煙

ベルギーのタバコ事情:タバコ一箱がだいたい大体4EUR。日本円なら一箱が500円前後というところ。その他の(とくにより北側の)諸国と比べればまだまし。さらにはユーロ安のおかげでそれほどでもない気がするけど、これが1EUR=160円とかなら一箱の値段が日本の倍以上ということになるんで、やっぱり高い。その他、外国たばこの方が高いとも一概には言えない。日本とは違い、入っている本数がまちまち。例えば、長いタバコだったら一箱18本とかもある。反対にみょーに多いのもある。

そんな状況の中、非常に残念なことに私は喫煙者です。それもなかなかヘビーなわけで、毎日毎日これを買っていると、月に200EUR…、年に2400EUR…と、その間に日本に3回ほど帰れる、またはヨーロッパで大きな旅行ができる、いやヨーロッパ以外にでもそれなりの旅行ができることになる金額を浪費することになります。分かっていてもやめることのできない、意志の弱さ。特に論文を書いてるともう止まりません…。

少しでも節約するために、巻煙草を試みます。下の写真(左)にあるようなタバコ(Tabac)が200gはいったものが売られています。これだと一箱14EUR前後。これを巻いて紙タバコ(cigarette)を作ります。大体一週間から10日はもちます。ということで、週に60EUR、年に720EURとすこしはましに。ただしこの金額もやっぱり馬鹿げていることは理解しています、が…。

当初は、タバコの葉を紙(papier à rouler)に巻いて作っていたのですが、これがフィルターがないので、口の中が尋常じゃなく気持ち悪くなります。それで、現在ではフィルター付きのtube(写真右)を買ってきてそれで作ってます。専用のマシーンでシャカーンシャカーン作ります。

 

たばこ   たばこ

 

では、外でタバコを吸う環境はどうかというと、実はそれほど厳しくありません。法律によってレストランなんかは全面禁煙になったという報道がなされ、そうとうに厳しいイメージがありますが、実際には…。確かに、レストラン(ちょっとしたピタ屋さんなんかも)では禁煙で、喫煙者にとっては煩わしいですし、大学は構内完全禁煙、当然公共交通機関は全面禁煙です。しかし、街中ではほぼ自由にタバコを吸っています。ポイ捨てがだめっていう気持ちもないようです(以前、「道路にゴミを捨てないことはゴミ清掃員の職を奪うことになる」とベルギー人に言われえらく感心した記憶があります)。公共交通機関は禁煙と言いましたが、それはあくまでも電車内、バス内などの話であって、駅のホームでは普通に吸っています。私の感覚では、まわりの人に気を使ってとなりますが、こちらの人はそれはお構いなしで、子供がいてもお構いなし。禁煙区域ではない場所での喫煙はある種「当然の権利」のようです。歩きタバコ禁止っていう思想はそもそもこちらには存在しないようです。

 

…やめましょう。

2008年11月29日(土) :コインランドリー, Walthère FRÈRE-ORBAN, 言語戦争, 言語観, フランス語とワロニー語

※ ネットの速度が回復。28日夜の締めか??? ※

 

今日はコインランドリー日和。洗濯はわりと部屋でしこしこやってけど、今日は大物たちをまとめてランドリー(lavoir automatique)。最近何故か自分からちょっと嫌な臭いがしてるなと気になってたけど、理由が解明された。部屋でばんばんフリットを作るのでその臭いが上着についていた。大洗いしなければ。「古い油の匂い」…嫌だ。

近くのランドリー。洗濯機が2.9EUR、乾燥機が0.5EUR(8分)。去年のブリュッセルでの御用達のランドリーよりも安い。やっぱり物価が違うのか。後どうでもいいことなんだけど、ちょうど手元に20EUR札しかなくて、洗濯機用のコインをそれで買ったら、お釣りが0.5EURコインで出てきた。計34枚、嫌がらせとしか思えない(写真:右)。

 

コインランドリー  コインランドリー  コインランドリー

 

ということで、洗濯の待ち時間を利用してお散歩。日曜日ではありませんが。「街中にある偉人達の名前から日記ネタ」シリーズ第4弾、かな…。本日は Walthère Frère-Orban(1812-1896)。ちなみに「フレール・オルバン大通り(Boulevard Frère-Orban)」の位置はココ。ムーズ川沿いの比較的大きな道で、バス通りとしてわりとお世話になっている通り。

 

Boulevard Frère-Orban   Boulevard Frère-Orban

 

強烈な自由主義者であり、二度にわたり首相を務め(1868-1870, 1878-1884)、1863年にはオランダからエスコー側の通行券を買い戻し、反カトリックの政策を押し通したリエージュ選出の政治家。ただしこれだけだと、あまり僕の研究には関係ない。何故に彼の名前が気になるのか? 反フランデレン運動であり、フランデレン語の公用語化の要求に対して割と積極的に議会において発言しているため。彼の「言語観」が明確に表れている発言を以下に二つ引用する。自由党が下野した後(1884-)の1887年12月2日の下院における発言(下線強調は石部)。

Frère-Orban: Vous prétendez aussi que tous les Wallons parlent et comprennent la langue française. Erreur profonde! Les Wallons lettrés connaissent tous le françaisi, comme les Flamands lettrés le connaissent auss; les Wallons qui habitent les villes savent, en général, le français; mais la masse de la population wallonne ne comprend pas toujours le français ou le comprend très mal.
Coremans: Vos écoles primaires n'auraient donc servi à rien ?
Frère-Orban: Même avec les écoles primaires. Je vais vous en donner une preuve irrécusable. Je fais ici appel à tous mes collègues des provinces wallonnes. Tous les jours, devant les tribunaux, en police correctionnelle, on est obligé de parler le wallon aux témoins pour pouvoir se faire comprendre. Cela est incontestable; cela se passe journellement, malgré les développements pris par l'enseignement primaire. Ces populations, qui ont été à l'école primaire, ne parlant jamais que le wallon ont oublié ultiérieurement le français qu'elles y avaient appris ou le comprennent très mal.
Annales Parlementaires de Belgique: Chambre des Représentants, 1887-1888:164

まず、当時1887年のワロニーの言語状況について、フランス語を理解するのは「教養のある(lettré)」ワロニー人だけであり、一方で「多くの一般大衆(masse de la population)」はフランス語を理解できないか、またはできたとしても僅かだと述べている。それらの一般大衆が話すのは「ワロニー語」であり、彼らにとってフランス語は小学校で習わなければならない(ただし多くのものはその後忘れてしまう)ものとの認識である。すなわち、フランス語とワロニー語は異なる言語であるとの認識である。そのような認識の上で、

Frère-Orban: Il ne faut pas montrer des exigences déraisonnable, parce qu'on arriverait à allumer des passions qui sont des plus dangereuses ! C'est à ce point de vue que j'envisage la disposition qui est présentée et surtout pour le principe qu'elle tend à faire consacrer.
Si le principe que vous voulez faire prévaloir était vrai, il faudrait exiger également des officiers la connaissance de l'allemand et du wallon, en Belgique ! (Oui ! oui ! à gauche.)
(...)
Frère-Orban: Il faut, dites-vous, que les officiers et les soldats mis en présence se comprennent. A ce point de vue, il est aussi légitime d'exiger que les officiers connaissent le wallon que d'exiger qu'ils connaissent le flamand.
Annales Parlementaires de Belgique: Chambre des Représentants, 1887-1888:164

「ベルギー人全員が理解できるような言語政策を行わなければならない=フランデレン人が理解できるフランデレン語も公用語へ」というフランデレン側の主張に対しての返答。そのような「原則」を押し通すとなると、フランデレン語はもとより「ドイツ語やワロニー語」にも権利を認めなければならないと主張する。これは、(1)フランス語はワロニー人・フランデレン人双方にとっての母語ではなく、(2)フランデレン語やワロニー語が一般に人々の母語である、(3)国家としての一体性を保つためには双方自らの母語を捨て去りフランス語を用いる必要がある、という「言語観」である。これはワロニー人国会議員や後のワロニー運動においても共通して見られる言語観である。

注意しなければならないのは、ここで Frère-Orban が本当に「ワロニー語」の公的承認を心から望んでいるというのではなく、あくまでも「フランデレン語の公用語化」の主張に抗するために、ワロニー語の存在を利用しているだけということ。ワロニー語(話者)への権利付与など「有り得ない」という前提があるからこそ成り立つ、一種の「戦略」。ベルギーの言語政策において、「方言」の存在は「認識(connaître)」こそされ、決して「承認(reconnaître)」されるものではなかった。

彼について役に立つサイト:http://www.unionisme.be/

 

…こう考えると、これからこの通りを通るのがなんだか哀しくなるわけで…。

2008年11月30日(日) :Saint-Nicolas des étudiants, La Carré

今日は、La Saint-Nicolas des étudiants「学生のサン・ニコラの日」。なんかリエージュの伝統行事としての学生主催の fête なそう。今日から明日にかけて Le Carré「リエージュの街の中心」がぼっこんぼっこん盛り上がるらしい。Nicolas たちが「Tu sors ?」と呼びにきてくれたんだけど、今日は行かない。昨晩も Mathieu の部屋でぼっこり飲んでなにも夜に学ぶことができなかったので、今日は部屋に。

 

 

 

12月の前半へ



石部尚登(いしべなおと):naoto19@aol.com